
延々と連なる海岸線は昔と変わらず美しく、朝陽はまばゆいばかりにきらめき、海水は静かな音をたてていた。しかし海沿いのかつてあった村々は廃墟のままで、震災前の賑やかさを忘れてしまい、復活への力までも失ったように見えた。津波が席捲し去ったあと奇跡的に残った一本松は、陸前高田市の海辺に独り立ち、たとえその生命力を失ってしまっても、依然としてその揺るがない姿を示すという責任を全うしており、まるで地球上のすべての生き物にむかって、生きていく勇気を失ってはならないと叫び続けているようであった。

大船渡市役所職員の今野芳彦氏は次のように説明した。「この二年間は復興の準備期であり、市役所はすでに三棟の公営住宅を完成させ、入居申請を開始しました。震災から二年以上が過ぎても、慈済ボランティアの方々が今なお大船渡市のことを忘れることなく、再びこの地を訪れてくれたことに一番番感動を覚えます、本当にありがとうございます。」
二十六人の慈済ボランティア達のうち、一組は東北出身の伊東信一氏に引率され、釜石市の仮設住宅へ赴き、慈済のお茶会を開いた。もう一組は大船渡市長洞の仮設住宅へ行き、大船渡リアスホールで復興支援活動の写真展との「鑑真大和尚」日本語版動画の鑑賞に人々を招待した。

「顔は覚えていないけれど、あなたたちのユニフォームは覚えています。」「見舞金ありがとおうございます、台湾の慈済ボランティアの方々本当に感謝しています。」多くの人々が再び訪れた慈済ボランティアに対してお礼を言った。
津波は佐藤幹雄さんの家を飲み込んだ。彼は年配の親族三人を失い、自身も危うく命を落とすところであった。海水が肺に入り、病院で療養した後は、依然として仕事は無かったが、最も助けが必要な時に援助をしに来てくれた慈済メンバーにとても感謝をしていた。見舞い金の入っていた封筒を今でも大切に保管していた。「鑑真大和尚」を観た後、人生はまた取り戻せる、意義のあることをするのだと改めて感じた。」と彼は言った。
佐々木夫妻は招待状を受け取り、避難先である遠野市から車で一時間ほどかけて会場に一番先頭にやってきた。疲れた顔が見て取れた、日々の生活は楽ではないのだろう、彼らは未来がまた見えないと淡々と言った。
ボランティアがその活動内容と竹筒募金の話を夫妻と分かち合ったことで、夫妻は元気出すことができ、力強く日々を生きる決心をした。持っているものは少ないけど、竹筒に募金を募って人を助ける一日一善の行いをすると誓った。
元県議員三浦陽子女史は、盛岡から皆を元気づけるためにやって来た。三浦女史の尽力のもとで、震災二週間後慈済メンバーの被災地支援活動ができて、支援物資が最初に届けたのは大船渡市でした。

今回の支援活動は、釜石市在住の伊東信一氏の力添えにより実現しました。写真展会場の物色、ポスターの発行し、お茶会の時間や場所などの連絡を協力してくれた。新しい住まいを建て、生活も軌道にのった伊藤氏は、四月十三日、十四日全日程の活動に参加し、奥さんは美味しい食事と弁当を用意し、その娘や孫たちもお茶会に参加した。一家の願いは故郷の人々に心を尽くし、東北に蒔いた最初の種から芽が出ることだ。
各仮設住宅はすでにコミュニティを形成しているが、しかし住民達はいずれ再び引越し、各地へ分散してしまう不安がある。でも、不安定な未来に不安を抱いても、帰るバスの中では、多くの人々は笑顔でした。慈済メンバーは皆を環と線で繫げたかげて、互いに助け合いながら暮らしていくだろう。慈済メンバーも今後それを機に、応援を続けて、東北地域での愛心の種を繫げ、その芽の成長することに期待しましょう。
撰文/許麗香
訳/Busby Jyunko